田沼たかし 本人 メールを送る
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田沼たかしプロフィール
箱入り息子 浅間神社にて七五三
◆1975年(昭和50年) 12月26日生まれ
  山羊座 A型 38歳
◆1982年 園生幼稚園 卒園
◆1988年 小中台南小学校 卒業
◆1991年 小中台中学校 卒業
◆1994年 千葉東高校 卒業
◆1999年 東京大学経済学部 卒業
◆立花隆ゼミにて、インタビュー集 『二十歳のころ』(新潮社) を出版
◆2006年 政治家を志し 退社。7月7日 稲毛駅前で初の演説をする
◆2007年 千葉県議選に、千葉市稲毛区から出馬。無所属の新人ながら健闘するも、落選
    -現職候補者(63歳・自民) 24548
    -後継候補者(47歳・民主、労組) 16449
    -田沼隆志(31歳・無所属) 14781(1668票差)
◆2009年 千葉市議会議員補欠選挙(投票率:25.12%)に、千葉市稲毛区から出馬し当選。
    -田沼隆志(33歳・無所属) 11793当
    -小田求 (37歳・民主) 8898当
    -安喰武夫 (51歳・共産) 3653
    -金田由希 (29歳・ネット) 3172
    -谷戸俊雄 (74歳・無所属) 1202
    -渡辺裕一 (54歳・無所属) 918
    -大窪由郎 (62歳・無所属) 855
◆2011年 千葉市議会議員選挙に千葉市稲毛区から出馬し、当選。
    -田沼隆志(35歳・無所属) 8522当
    -小松崎文嘉 (40歳・自民) 7716当
    -奥井憲興 (62歳・公明) 6613当
    -山浦衛 (64歳・民主) 4496当
    -茂手木直忠 (65歳・自民) 4257当
    -安喰武夫 (53歳・共産) 3528当
    -川合隆史 (43歳・民主) 3436当
    -小田求 (39歳・無所属) 2743当
    -山本直史 (41歳・無所属) 2713当
    -金田由希 (31歳・ネット) 2587
    -富山浩則(48歳・みんな) 2196
    -小梛輝信 (68歳・無所属) 1345
    -渡辺祐一 (56歳・無所属) 873
◆2012年 衆議院議員総選挙に千葉県第1選挙区から出馬し、当選。
    -田嶋要 (51歳・民主) 76914当
    -門山宏哲 (48歳・自民) 69927比当
    -田沼隆志 (36歳・維新) 44668比当
    -西野元樹 (38歳・みんな) 27089
    -寺尾賢 (36歳・共産) 13102

田沼たかしプロフィール詳細

1975年(昭和50年) 12月26日生まれ 山羊座 A型

わたしの父は、母と結婚した後、2つのマンションに当選したそうです。1つは南行徳、そしてもう1つが、ここ稲毛でした。稲毛は当時快速も通っていませんでしたが、東京に比べて緑が多く、 子供すなわち私の教育には良い環境だと考えて、稲毛を選んだそうです。当時だけでなくいまでも、多くの方が、同じ様な想いで稲毛に来られたと聞いています。

私が子供の頃、緑豊かな環境で、虫を捕まえたりザリガニを釣ったり林でかくれんぼをして自然を肌で感じて育ちました。今思うと、父が稲毛を選んでくれて、本当によかったと思っています。稲毛が、緑豊かな、子供の教育に 相応しいまちであり続けて欲しい。それは私の生い立ちからくる願いです。

1982年 園生幼稚園 卒園
卒園式にて 友人宅で 新潟のおばあちゃんの家で (左)卒園式で
(中)友人宅で
(右)新潟のおばあちゃん宅にて

1988年 小中台南小学校 卒業
自宅で いとこの智くんと 小学校卒業式に仲間と (左)自宅にて
(中)いとこの智君と
(右)小学校卒業式に仲間と

1988年 小中台中学校 卒業
家族で山登り 中学校最後の体育祭 中学校卒業式に母と (左)家族で山登り!
(中)中学校最後の体育祭にて
(右)中学校卒業式に母と
○ 30年間、稲毛区園生町に在住(現在も)
○ 小中学時代は野球とサッカーに打ち込む

ごく普通のスポーツ少年でした。高校のグランドに潜り込み、よく友達と遅くまでサッカーや野球をしていました。
特に目立ちたがり屋でもなく、引っ込み思案でもない。人好きな、普通の子供だったと思います。危ない目にも遭わず、素直に元気に育てたのは、園生町・小仲台町の方々のおかげだと、思っています。 勉強は公文式をやっていました。とにかく大量に問題を反復をする手法です。それ以外の勉強はほとんどしないで、運よくそれなりの学力が保てたのは、基礎教育の徹底 がいかに重要・有効かを示していると思っています。

1994年 千葉東高校 卒業
合唱コンクール全国大会に出場し、混声合唱団1位 ◆高校時代は合唱に打ち込む 高校2年のとき音楽部部長
◆合唱コンクール全国大会に出場し、混声合唱団1位
◆卒業後も当時のメンバーを中心にセミプロ活動中(現・合唱団からたち 団長)
スポーツひとすじだった私は、千葉東高で突然、音楽の道に入りました。「強い部活に行きたい、そこで自分を成長させたい!」との想いから、ラグビー部と迷った末に、合唱の世界へ! 当然はじめは、おたまじゃくしもぜんぜん読めませんでしたが、よき先生や仲間に恵まれ、すぐに歌が大好きになりました。2年生のときは部長として100名以上の部員の代表となり、部活動にとことん打ち込みました。 その年の朝日コンクールでは、部活史上初の全国大会出場、そして混声合唱団では1位に。精一杯の結果に、皆で喜び合いました。文字通り、汗と涙の青春時代。苦しいこともありましたが、かけがえのない日々でした。
私の、稲毛を故郷と感じる想いは、西千葉でのこの日々が、大きく影響しています。

そんな仲間たちと今は、OB合唱団を結成し、団長として10年以上、東高のそばの稲毛区轟町で活動を続けています。最近はNHKに出演したり、"岡本知高"氏ら著名アーティストと共演するなど、 千葉を代表する熱血混声合唱団になりました。歌は私の人生そのものです。多くの若者に、歌でなくてもよいです、好きなものを追求する苦しみと喜びを、知ってもらいたいと思っています。

1999年 東京大学経済学部 卒業
立花隆ゼミにてインタビュー集『二十歳のころ』(新潮社)を共同出版 ◆立花隆ゼミにて、インタビュー集 『二十歳のころ』(新潮社) を出版
東京大学では、日本有数の知識人、立花隆先生の"立花隆ゼミ"に参加し、中心的に活動しました。
先生が「本を出すぞ!」と言ったのがきっかけで始まった「二十歳のころ」作成プロジェクト。それまで私はゼミに入っていませんでしたが、そのプロジェクトはどうしても面白そうだったので、いきなり飛び入り参加して、 いつのまにかゼミ生になってしまいました。
このゼミは大変おおらかなゼミで、やる気のある人間には非常にオープン。他大学の学生も多く参加しており、「とにかくなにか発信するぞ!」という集団でした。
「二十歳のころ」は、文字通り寝食忘れて1つのアウトプットに向かう日々でしたが、大変楽しい想い出です。有名無名、様々な方々に青年期をインタビューし、本当に様々な刺激を受けました。

※全然関係ありませんが、立花隆先生の本名は、「隆志」、つまり私と同じなんです。
 そのおかげで? 先生にはすぐ覚えてもらえました(^^)

なお、政治信条にかかわることですので、ちゃんと書きたいと思います。
私は立花先生とは、思想信条としては、合いませんでした。
私は、戦前の日本にもよいものはあったと思っていますし、憲法も改憲すべきと考えています。しかし先生はおそらく、どちらにも反対の立場であり、いわゆる左翼的立場におられると思います。この衝突は、最初から最後まで消えませんでした。

ですがやはり、立花隆という人は、私にとって先生です。
思想信条は異なりましたが、とても刺激を受け、若い私は様々な教育を受けられたと、深く感謝しています。
何より勉強になったのが、先生のスタイルです。

 「好きなこと、面白いことにとことんフォーカスする」
 「思い立ったらすぐ行動する」
 「根掘り葉掘り、徹底的に追求する」


このスタイルを、生身の姿と日々から、感じ学ぶことができたのは、私の人生においても大変重要な日々でした。その後のアクセンチュアでのコンサルタントとしてのサバイバルにも、多大に役立ちました。
思想信条も大事。でも、人間としてのスタイルや義理人情も大事。
どちらも合わせ持った人間となれるよう、自分の器を大きくしていきたいと願っています。


また、経済学部でありながら、法学部や、教養学部大学院のゼミなどにも参加していました。当時から、型にはこだわらず、実感を大事にしていくことをモットーとしていましたので、単位にならなくても興味のあるものを選択していました。 (おかげで卒業単位数はギリギリでしたが・・・)
私の出会った先生方は皆、ふところの広い方で、快く参加を認めていただけました。現国連次席大使である日本政治外交史の北岡伸一先生や、青山学院大学教授でロシア専門家の第一人者である袴田茂樹先生、現在日銀の審議委員である西村清彦先生など、 いずれも今現場で大活躍をされている先生方に、教えを受けました。

袴田先生には、私がいま最も敬愛する評論家である、福田恒存との出会いをさせて頂きました。福田恒存との出会いがなければ、私は政治の道を選んでいなかったと思います。その他「人は自分の器以上のものは理解できない」など、袴田先生からは多くの 本質的な生き方、考え方の教えを受けました。

北岡先生には、歴史との接点を深めていただけました。私の今回の政治への決心は、明治期以降の日本の政治外交史、とりわけ昭和史を知ったことが、大きな重みを占めています。1つの史実を複眼的に検証し丹念に事実に迫りつつ、同時に鋭く現代的意義の あるメッセージを発信する北岡先生には、歴史への接し方を学んだ気がしています。私がその後社会人になってからも、歴史を勉強し続けているのは、先生にその面白さ・重要さの第一歩を教わったからだとおもいます。

西村先生には卒論の指導をしていただきました。大東亜戦争開戦の原因を経済的側面からたどる卒論を作成した際、有効な文献や学説を紹介いただきました。西村先生は統計分析から経済史まで、非常に広い分野で知見をお持ちの大変優秀な先生で、 「こういう人が東大教授なんだな」と感服したのをおぼえています。

先生方に共通していたのは、好きなもの・興味の湧くものは徹底的に追求し、研究するという態度です。一流の先生方は、それが徹底していることを、リアルに感じました。

1999年 アクセンチュア㈱ 入社(世界最大の経営・ITコンサルティング会社)
アクセンチュア(株)入社 戦略グループ所属日本を代表する企業・
官庁の戦略策定・改革プロジェクトを実行
一番よい修行ができる場所を選ぼう
◆日本が世界に誇れるものはビジネスだ
◆ビジネスで最も厳しい現場は、経営戦略コンサルタントだ(と言われていました)
◆しかし机上の空論ではなく、本当に改革定着までお客さんと心中することこそ、真のコンサルティングだ
◆それができるのはアクセンチュアだ!

そう思って、アクセンチュア㈱に第一志望で入社しました。

一人前として認められること、社内で生き抜くこと自体が、大変な環境でした。まさにサバイバル。
しかしひとつのアウトプットのために、チーム一丸となって心身の限界と戦いつつ(本当によく徹夜しました)、使命達成に全てを賭ける真剣な日々は、私の人生においてかけがえのない時間となりました。 そんな、真摯に自分と戦う日々が送れたことに、心から感謝しています。

具体的には、日本を代表する企業にて、経営、財務、営業、組織、新規参入、業務改革等、様々な改革プロジェクトに参画。民間最前線の改革手法を学びました。また、行政機関の戦略立案・改革実行プロジェクトに取り組み、 民と官の仕組みや意識の違い、その改革手法の違いを、肌身で理解しました。官を、民の感覚・手法で改革し、本当に顧客=住民のためになる行政を作りたい。それを本当にやりぬく信頼される政治を生みたい。そう考えるようになりました。

2006年 政治家を志し 退社。7月7日 稲毛駅前で初の演説をする
2006年7月JR稲毛駅前にて初の演説を開始する。 在職中、知覧で深い衝撃
若くして亡くなった人々の想いと生き方に涙し、政治の道を決断
鹿児島県の知覧に、特攻隊記念館を訪れました。自分よりも10歳も年下の若者たちが、国のため・故郷のため、愛する家族を守るため、命を捧げたことに、涙が止まりませんでした。
自己犠牲は、愛がなくてはできません。そして人は、死を前にして自分を偽れません。彼等は苦悩しながらも、郷土愛、家族愛、日本の伝統を守るために、勇気を持って自己犠牲を決断した。その苦悩と奮起の様子、 真摯さは、実物の遺書を見れば一目瞭然でした。

これは私にとって大変大きな衝撃でした。初めてリアルに、歴史を感じるようになった、と言ってもいいです。特攻隊に限らず、明治維新のときの草莽の志士たちの想いや、その後の為政者たちの悩みなども、 急激に深く感じられるようになりました。もともと好きだった、西郷隆盛や坂本龍馬や新撰組の物語も、突然深い示唆を私に与えてくれるようになりました。
歴史が、文献や知識ではなく、等身大の人間の物語、喜びや怒りや悩みや夢をもつ普通の人間のストーリーとして、飛び出してきた感覚です。 歴史が想像力の羽をまとい、自分の生き方・考え方にまで影響を与えるものになりました。

私の祖父の話も同様です。祖父は戦争時、看護兵として従軍したのですが、新潟の農民ですので医療や看護の知識などなく、多くの戦友が目の前で亡くなっていったそうです。それが悔しくて、 私の母たちには医学部に行って欲しかったそうですが、女3人姉妹でしたのでその夢は果たせませんでした。
私は高校時代のころは理系で(公文式の影響で数学がとても好きでした)、その話を聞いたとき、医学部を目指そうと一度は思いました。しかし人間の心、社会のあり方に直接触れる仕事がしたいとの想いから、 進路選択の最後の最後に、文系に転向してしまいました。
今でもその決断には何の悔いもありません。しかし、祖父の心が昔よりはるかにわかるようになった今なら、医学部を目指していたかもしれません。

親や祖父母、そして多くの先人達の苦労と期待のもとに、今の日本や千葉、自分があることを知り、田沼自身も何か、世のため人のため立派な仕事をしなくてはいけないと、強く考えるようになりました。
しかし私には、人の心に直接訴える作家の能力も、人間完成を目指す高い人間性を持った宗教家の能力も、ありません。
そんな私ができること・奉公できることといえば、経営コンサルタントとして修行してきた改革手法、教育への止まぬ情熱、稲毛と千葉への愛着、そして人好きな性格、くらいしかありません。 それが一番活かせるのは、政治ではないかと考えました。

以上が、私が政治の道を志した経緯です。
   
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